震災から13年

東日本大震災から13年。2011年3月11日は思い出すとあまりにも突然で、大きな地震と津波。周りがどのような被害で、どんな状況だったのかもわからぬまま、被災者の受け入れに追われたことを思い出していました。
補助事業の発表会の日で、県や関係団体、報道関係の対応をしている途中での地震でした。道の駅津山もくもくランド施設内の全てのお客様が安全に施設の外に避難できたかの確認を、トイレの中も全て確認してから、施設の損傷など、とても大きな被害があったことなどを目視していました。駐車場内に多くの車が避難してきたのが、午後3時半を過ぎたころでした。

「津波がきている」「大きな津波だ」「戸倉駅が流された」「コンビニも流された」という情報は避難してきたお客様方からの生の声でした。ラジオでは「仙台市若林区にたくさんの遺体」「多賀城のコンビナートで火災発生」が繰り返されていたことをおぼえています。
駐車場がほぼいっぱいになり、ホテルに行く予定のバスも数台停車していました。緊急の事態にもくもくランド関係者はすぐに集まり、余震の続く中、避難してきた方の対応と受け入れを開始しました。
この時にすぐに欲しい情報は、今の道路状況や避難所の受け入れ状況などですが、情報が入るのは避難してきた方たちの生の声でした。地震直後から停電と電話のつながらない日が続きました。11日はとにかく余震がすぐにきて、地鳴りのような地面から響く音とともに揺れるたび、避難してきた方たちもその都度、恐怖感に襲われたと記憶します。
自宅からストーブなどを持ち寄り、店舗を開放して、夜は車中泊をする方とバスで過ごす方、また店内で過ごしていただく方と役員が常駐することにしました。
小麦粉や油麩を持ち寄り、急遽、大鍋ではっと汁をつくりました。カップ麺を持ち寄り、なるべく多くの方に少しでもあたたかいものをとってもらえるよう配ったことを記憶しています。自分たちが何かを食べたかの記憶がありませんが、きっと空腹を防ぐための菓子でも口にしたのか、ほとんど夢中でおぼえていないのです。電気がないので軽トラックで灯りを照らしてもらったこと、スタッフもずいぶん集まって、流れ作業のようにしてはっと汁をつくったこと、イベント用の容器や割りばしを使ったこと、店内に集まり夜を過ごした方が数十人いたこと、車中泊のバスが何台かあったこと、車で過ごした方も多くいたことは記憶しています。
その日から私たちは避難所としての自主活動を始めたのでした。避難している方への食事の提供、どこも食堂が閉まっていて食事のできない方への提供など、持ち寄った食材、農家の野菜などを使い、約10日間ほど、食事の提供をしていました。南三陸町へおにぎりを200個ずつ握って入谷の避難所へ届けたことや、全国から次々届く鶏肉などの食材をさばき切れずに困っていた体育館から材料を運び、調理しておかずとして届けたことなど。ポツリポツリと思い出しています。
施設が広いので鳥取消防隊などのキャンプ地として利用していただき、また人命救助にきた全国の自衛隊の皆様のトイレのご利用など、地盤沈下で水道が使えず、トイレは川の水を自衛隊のポンプ車で汲んでもらい、バケツリレーでトイレを使っていただいたことで利用が出来たこと、地面を掘り自力で水道管をつなげたことなどがありました。登米市に願って仮設トイレも緊急に設置してもらいました。
出来ることは限られていましたが、その時は施設のスタッフも担当者も夢中で避難者の皆様や道の駅を利用する方たちへの対応をしていたことを思い出しています。その時に人のつながりってすばらしいな、ということを感じたものです。人という字はバランスよく書かないと、そしてお互いに支えていないと人という字にはならないのです。
もくもくランドは2019年10月東日本台風で施設全体が被災し、3年以上を仮の店舗で営業することとなりました。その時にすぐに応援にきてくださった人たち、たくさんの皆様に助けていただき、リニューアルオープンできることとなりました。
これも皆様のおかげで人のつながりがあってのことだと感じております。
3月11日は毎年、何かを思い出し、振り返りながら新しい思いを感じる日でもあります。